大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和57年(う)273号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人酒井憲郎作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官棚町祥吉作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意中精神鑑定の却下及び責任能力の判断に関する法令違反の主張について

論旨は、要するに、被告人は、本件犯行当時、心神喪失の状態にあつたのに、原審が弁護人からの精神鑑定の請求を却下したうえ、原判決において右の事実を認めなかつたのは、証拠の採否に関する自由裁量の範囲を逸脱した点で訴訟手続の法令違反があり、かつ、また刑法三九条一項を適用しなかつた違法があるというのである。

そこで記録を精査し、当審における事実取調の結果をも併せて検討すると、原判決が弁護人の主張に対する判断として被告人の精神状態につき説示しているところは、正当であると認められる。

所論は、その主張の根拠として、被告人は、下光軍二弁護士に対する一方的な思慕の念が高じ、病苦とも重なり、遂にはノイローゼ状態となり、種々の妄想を懐き、本件当時正常心を喪失するに至つたものである旨主張する。関係各証拠によれば、被告人は、昭和四八年前夫との離婚問題を下光弁護士に依頼したことから、同人を知り、やがて一方的に恋慕するようになり、翌年一〇月頃から同人の法律事務所にたびたび押しかけ、交際を迫つたが、相手にされなかつたため、昭和五三年には三回に亘り同人の鞄等を持ち去るなどのいやがらせをし、同人から告訴をされるに至つたが、捜査官の説得もあつて、このような事を繰り返さない旨約して、告訴を取り下げて貰つたにも拘らず、ほどなく再び同事務所に押しかけるようになり、本件に至つたことが認められる。

ところで、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書並びに同人の原審及び当審公判廷における各供述によれば、被告人が同弁護士に思慕の念を懐くに至つたのは、同人が離婚調停の成立の際に、被告人に二〇〇万円を出すから付き合つてくれと言つたことがきつかけになつたというのであり、その後も軍二という名にちなみ、九時に二回電話のベルをならすなどの方法で同人から事務所に来てくれとの二人だけの間に通じる暗黙の連絡があり、本件の直前にも右のような連絡があつたので同事務所に行つたのであるし、また本件後被告人の愛犬が失踪したのは、同人が犬を隠したためである、というのである。しかしながら、同弁護士の原審証言によれば、同人が右のような言動をしたことは全くないことが認められ、この証言の信用性について疑いをいれる余地は全くないから、被告人の右供述は、事実に反していることが明らかであるが、そのことから直ちに被告人が妄想による精神障害をきたし、責任能力を欠如していたものと推断することはできない。現に、同人から二〇〇万円の話がでたというのは、未だ当初の時期であつて、被告人がその当時から既に妄想を懐くような状況にあつたとは到底考えられないし、電話の件等についてみても、思慕する同人の事務所へ一方的に出かけることを合理化するために心理上の辻褄をあわせるとか、同人の態度にごうをにやし、言いがかりをつけているということも十分考えられるのであつて、時の経過とともに一途に思いこむような状態になつてきたことはあるにせよ、これが一概に幻覚や病的な妄想によるものと断じがたいことは他の関係各証拠からも窺われるところである。さらに、被告人の右供述によれば、本件犯行の動機は、相手になつてくれない同人の態度に怒り、自分の苦しみをわかつてもらうため、仕事に関係する書類などが入つている鞄を持ち去ることで同人を困らせようとしたというのであり、このようなことは横恋慕する女性の心理としてむしろありがちのことであつて、それなりに理解することができるし、そのためにとつた行動も格別奇異なものとも思われないので、これまた平常心を失つていたことの証左とみることはできない。その他本件犯行前後の状況や、被告人が普通に日常生活を送つていることなどを総合すれば、その性行にやや異常な点がみられるにしても、本件犯行当時、被告人にはその責任能力に影響を及ぼすような精神障害はなかつたものと認められ、所論指摘の諸点を考慮に入れてもこれを疑う余地はなかつといわなければならない。したがつて原審が、弁護人のした精神鑑定の請求を必要がないとの判断のもとに却下し、原判決において被告人の責任能力の欠如を認めなかつたことに、所論のような違法はない。論旨は理由がない。

控訴趣意中家計薄取調請求の却下及び威力業務妨害罪の適用に関する法令違反の主張について

論旨は、要するに、(一)原審が被告人作成の家計簿について弁護人の刑訴法三二三条三号書面としての証拠調請求を却下したのは、違法である。(二)原判決の判示する鞄の奪取行為だけでは威力業務妨害罪にいう威力には当らないし、また訟廷日誌はほかにも事務所に備え置くのが普通であり、鞄の中のを奪つたというだけでは弁護士業務を妨害したとはいえないから、同罪の成立を認めた原判決は違法であるというのである。

しかしながら、(一)の点については、原審が被告人作成の家計簿を却下した理由が所論のように刑訴法三二三条三号書面に当らないとしたのか、或いは取調べの必要性がないとしたものであるか記録上明らかでなく、またこれに対して異議の申立もなされた形跡がないのみならず、当審においては、これを証拠物として採用し、取調べたのであるが、その結果によれば、右証拠中の本件に関連する部分は電話に関する記載であるところこの点は前述のように責任能力に関する原判断を左右するものではないから、いずれにせよ、判決に影響を及ぼすような違法の問題でないことが明らかである。

次に(二)の点については、原判示のとおり、訟廷日誌等在中の鞄を奪い取る行為自体が威力業務妨害罪の威力にあたることは自明であり、また右鞄を自宅に隠匿することによつて、同人の弁護士活動を困難ならしめたことは、関係証拠上明らかであり、所論のような事情によつて犯罪の成否が左右されるものではないから、被告人の右行為が業務妨害に該当するとした原判断は正当であつて、何ら違法はない。論旨はいずれも理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法一八一条一項本文を適用してこれを被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例